8月18日›18 August, 2004‹

#231 2004.8.18 (Wed)
人生における3度目のコンクール出場を果たした。
結果は全て銀賞。だがこの結果には満足している。
もちろん練習不足や知識不足、気持ちの不足は理解し
またそれを単純に見過ごすわけでもない
ただ当日の演奏に関してだけ「やるだけやった」そう評価してきた
やろうと思えばやれることは数え切れないくらいあった
まぁこれは毎年口にしてきたことであるから多くは語るまい

問題は今回で3年目だということ
吹奏楽歴15年目にして3回目だということが問題なのだ
中学生が吹奏楽を始めてまもなくに参加するのとは訳が違う
15年もやっていればそれなりに自分の中での位置づけもできていないといけない
そんな中でただなんとなくその場のノリ的な理由でコンクールに参加してきた
そんな中途半端な状態で何かを目指せるわけもない
コンクールとは最も目的のはっきりした音楽であるはずなのに

コンクールに否定的な人々の証言はたいてい決まりきっている
「素晴らしいと思うことの価値観は人それぞれ違うのに、
数人の審査員によってそれが決められてしまうのは間違っている」
言い方は違えど、大概ははこれに要訳される
正直少し前までの僕もこの立場だった
だって銅賞の演奏にだって感動する事はあるじゃないかと

「コンクールは競技である」ある僕の親しいプロの方は言った
音楽にはある程度の制約がある
それは楽典的なものであったり
あるいは「聞かせる対象」が必ず存在するために生まれる暗黙のルール
その中でどれだけ芸術を語れるかがコンクールの醍醐味であると言える
たとえばトラック競技ならば
フライングをしたり、トラックから外れて走ったり
隣の走者の邪魔をしたり、ドーピングをしたり、
これらを規制しつつそのルールの中でタイムを競う
その規制が嫌ならばそこら辺の原っぱで一人で気持ちよく走っていればいいのだ
そこをあえてトラック競技として出る、コンクールもこれと同じなのだ

トラック競技の例で続けると
では走るのが好きなのにトラック競技に参加しない人は
「走る気持ちよさは人それぞれなのにそれが評価されるのが気に食わない」
から参加しないのだろうか。多分違うだろう
おそらくトラック競技に参加しようという人たちの頭の中は
「走るという自分にとって気持ちいいもので更に認められたい」
「誰よりも早く走れるようになりたい」
そんな欲求があるのだろう。それが無い人は参加しようとしない。それだけのことだ

コンクールに話を戻そう
コンクールでより上を目指すという事は
「音楽という自分の好きなもので他人に認められたい」
「隣の人たちよりもいい演奏をしたい」
やはりそれが前提にあるのだろう
そしてトラック競技にゴールやタイムがあるのと同じように
それを評価する基準があり、評価する人がいて、最低限のルールがあるのだ

地区大会などはいわば予選
金銀銅の順にタイムがいい順に並べられ、その上位何団体かが次の戦いへと進める
「コンクールには勝ち方がある」という
それが気に食わないという人もいるが
走りのフォームを研究しタイムを伸ばすこととなんら変わらない
全国大会はいうなれば、甲子園、国体、インターハイと一緒だ
学生のクラブ活動であったり、企業のクラブチームやプロの団体があるあたり
他のスポーツと同じような性質であるのに
「音楽は芸術である」と意識しすぎるためにコンクールに否定的になる

僕自身は、このような考え方を知ることで
コンクールに対する否定的な考え方を改めた
スポーツの楽しみ方が人それぞれであるのと同じように
音楽の楽しみ方も人それぞれなのだ
評価されることを忌み嫌う人々は、きつい言い方をすれば
自分が否定的に評価されることを恐れてるに過ぎないのだろう
アンチコンクールな人だって、一度最高の評価を受ければ
きっと2度と「コンクールが嫌い」などとは言わないだろう

そう考えれば、コンクールを否定的に捉えるということは
プロの音楽家を「金を稼ぐための音楽をしている」と否定することよく似ていると思う
自分の価値観の枠外を非難するという事で
言い過ぎかもしれないが、人種差別と同じくらい醜い行為なのだ

以上長くなったが、結局言いたい事は
僕が決して現在はコンクールに対して否定的な考え方を持っていないということ
これから言うことを誤解されたくないがために非常に長い文章になってしまった
そう、誤解してほしくないのだが、それでも僕は自分自身でこう思う

僕にコンクールは合わない

何度も言うが否定的な立場からではない
音楽の楽しみ方は人それぞれである中で
僕の音楽の楽しみ方の中にコンクールは入っていない
それがこの3年間で出した結論である

僕の音楽に対する考え方の中に
「失敗しようが何しようが、俺の出した音が俺の音楽の全て。それ以上でもそれ以下でもない」
というのがある
詳しく書くと長くなるが、簡単に解説するとこうだ

演奏会本番の演奏はギリギリまで練習を積み重ねてその集大成だと言う人がいる
僕はそうは思わない
音楽をやる目標はなんなのか、その本番一つ一つなのか
そうではなく吹くたびに自分の思う最高の演奏ができること
それが音楽の最終目標だと思う
演奏会とはその長い過程の途中で「ここまできたよ」という発表の場であると
だからその演奏会の中では現在の自分のできる最高の演奏を目指すこと
それしかできない
本番で失敗したならばそれが自分の現在の限界なのだ
何故なら、聴く人にとってはその演奏だけが全てだから

だが、僕の目に映るコンクールとは
自分の中の限界の発表の場ではなく
人の決めた最低ラインを超えることに魂を砕く音楽だ
演奏の中で一つでもラインを下回ったとき、その演奏は「失敗」ということになる
例えば野球で言うならば、自分のところに飛んできた球をしっかり捕り
処理をして走者をアウトにする、それをゲームセットまでやりきることが仕事であり
どれか一つでもミスをすれば負ける原因になり得る、それと同じだ。
「競技」であるが故のコンクールの性質なのだが
僕にとっては音楽に本質的な失敗はありえない
今自分が自分にできる精一杯の演奏をし
それが聴く人を満足させられるかどうかが全てであり
たとえ満足してもらえなかったとしてもそれは失敗ではない
それは自分の考える「満足」と聴く人の考える「満足」が合わなかっただけのこと
たとえ世の中に自分の満足と合う聴衆がいなかったとしたら
それは寂しいことだがそんな場合もまぁなかなかありえないし。
合っている部分もあったが足りなかった、ならばそれはつまり
僕の音楽がまだまだ成長過程にあるだけの話であって、それは演奏の失敗ではない

むしろ聴く人が満足しているのに「今の音楽は1音ピッチが合わなかったから失敗でした」
では聴く人に対して失礼だと思う

以上はあくまで僕の音楽に対する考え方であって
この考え方を持っていない人が間違っているなどとは思わない
「自己弁護だ」と思う人もいるかもしれないが
これは「言い訳」ではなく「目標」だということを理解してほしい
そしてこの僕の音楽観と、「失敗」を設定するコンクールの音楽観が
対立していることもわかっていただければ嬉しい

コンクールの立場や精神
それにコンクールを目標にし頑張っている人たち
それらは音楽の形として正しいし、素晴らしいものだと思う
それは明らかに一つの「文化」だから
コンクールの練習は楽しいし
今回の結果にも満足している訳ではないし
次回も出たいなという気持ちもある

だけど、たとえ出たとしても僕は
「金賞を目指す音楽」ではなく、あくまで僕の目指す音楽しかできない
練習の中で苦しんで涙を流す音楽はしたくないのだ
そんな僕のような立場の人間が、コンクールに真摯に向かう人たちに混じり
出ていいのかという葛藤もある

とにかく自分の中でのコンクールの位置づけは明らかになった
あとは、今の楽団がそれでもやっていけるものなのか
これからもコンクールに出場するかどうかは
そこにかかっているといえるだろう