■そうすると生命の定義とは何なのかという話にもなるだろう。細胞の生命活動とはわれわれ人間から見たら化学変化にすぎない。 ■細胞が「死にたくない」という思考を持っているわけではない。実験室上では化学反応とは起こるか起こらないかの2つに一つである。 すると細胞は自らに課せられた化学反応的義務である生命活動を行っていると解釈してよいだろう。 ■ここで言う「化学反応的義務」とは酸素と水素がある条件下では必ず水に変化すると言う因果律のことを言う。 ■この問題は「なぜ細胞と言うものが存在しなくてはならなかったのか」という哲学的な問題にまで発展する。そうすると 「何故酸素や鉄などの物質が生まれたのか」という疑問も持たざるをえない。 ■しかし現在宇宙には大量の電子によって、様々な物質が構成されている。陽電子は見つけ出すのも困難なまでいなくなってしまった。これは何故か? ■僕はここのところをしっかり勉強したわけではないので、正確には答えられないが、電子と陽電子では微妙に性質が異なるらしい。 それが明暗を分け、その後電子と陽子と中性子しかなかった世界から、様々な化学反応によって何千種類と言う原子が現れては消え、更に 様々な化合物を生み出し、それが生命誕生の元となった訳である。 ■化学反応とはその物質どうしに起因し、その物質も化学反応によって成り立っている。その大元である物質は光と言うエネルギー体の現れ方の違いである。 ■その光のエネルギーの現れ方とやらがすべての組み合わせを尽くしているとしたら、もはや物質の生成とは必然の結果である。 そこに寓意や偶然の入り込む余地はない。 |
選択肢は存在するようで存在せず、今この現在はあるべくしてある現在と言える。 ■しかし量子論的にいけば、そこにはやはり確率が存在するのだ。つまり「今この宇宙があるのは確率的で、もしかしたら別の宇宙もあったかもしれない」 とだって言えてしまうのである。もっとも、確率は不確定さと同時に「起こりやすさ」も兼ね備えているわけで、 今この状況が宇宙的に一番起こりやすかった状態だとも言える。一種の熱力学第2法則ではないか? ■ともかく生命とは、少なくとも数学的には生まれるべくして生まれたものだと言えるだろう。 ■上の議論からの帰結で言えば、化学変化的にその方が自然だからである。ある条件さえそろえば化学反応は起こる。 ならば、細胞が生きようとするのは、誰かに強制されるわけでもなく、自分の意思でもなく、無為自然に行われる営みの結果なのだ。 ■つまり、こう言い換えることができる。「化学反応=意志」すなわち「生命が生きようと願う事は、それが生命を構成する物質にとって安定なことだと読み替えることができる」 少し難しいかも。「当然のようにする」が「したいからする」と同等だと言う事。「眠いから寝る」のと「夜だから寝る」のが同じようなものだ。 ■例えばまだ動物に骨というものが存在しなかった頃、 動物は摂取と言う形でCaを取り込まなくてはならなかった。それが次第に体の中に骨ができて自給自足できるようになったのだ。 もちろん別途摂取する必要はあるが。それが同時に骨格として、体を支える役目を果たした事で動物は地上に上がる事ができた。 ■このように「体とCaの化学反応」であったのがCa自体を生命体に取り込むことで個体としては進化した。このようにして生命体は 様々な機能を取り込むという形で進化してきたのだ。あらゆる化学反応を自分の個体内で行えるように。 ■そして同時に取り込まれた側もその個体内で生きていける。まさに共存である。コロニーと言う言葉を使った意味を理解してもらえただろうか? | |
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